戦国時代に土佐で活躍した、長宗我部氏の老親久武氏についての研究

○久武家について

 私の本籍地は高知市であるが、高知で生まれたのは曽祖父までであり、江戸時代は郷士の家柄であった。郷士というのは土佐藩独自の制度で、武士でありながら、城下の町人街に混在して住んでいた下級武士で、多くは山内氏の土佐入国前の長宗我部遺臣である。ちなみに幕末に土佐で活躍した坂本龍馬や中岡慎太郎、三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎等はみな郷士の出身である。

 久武家は中内・桑名とともに三家老と称され、長宗我部家の土佐入部時の家臣久武源三から仕える譜代の家臣で、遺臣の中でも筋金入りであるのだが、我が家に残る家計図は江戸時代中期まで遡ることはできるが、長宗我部時代に活躍した武将と直接的な関係はわかっていない。家紋が一致することから、直系の末裔と言われているが。

○戦国〜安土桃山時代に活躍した久武氏の武将

久武親信(ひさたけ ちかのぶ) ?〜1579 内蔵助 肥後守 親直の兄

 永禄12(1569)年の長宗我部氏の佐川侵攻以後、高岡郡佐川城主となる。。幾多の合戦に従軍し、誠実な性格と、思慮深い知将としても知られ、元親の信頼が厚く知行四万石という桁外れの禄高を給されたといわれる。天正3(1575)年の四万十川(渡川)の戦では吉良親貞と共に先陣を努めた。

 天正5(1577)年より南伊予の軍代としてその攻略の一切を任された。天正7年春,7千の長宗我部軍を率いて西園寺領に攻め込んだ.親信は西園寺氏の重臣,土居清良の本拠地である岡本城と大森城を攻めた(三間表の戦い).ところが,521日の戦いで,長宗我部軍は土居清良の計略によって打ち崩され,彼も銃弾に倒れ戦死。有馬温泉にて豊臣秀吉に会ったという逸話が残る。娘は元親の養女となり東条関兵衛に嫁ぐ。

 

久武親直(ひさたけ ちかなお)   内蔵助 親信の弟

 若年寄衆で知行二千石を食んでいたが、兄の死後、久武家を継ぐ。尚、親信は「自分が戦死しても、弟には決して後を継がせないでほしい。弟は腹黒く、必ずやお家の災いとなる」旨言い残していた。しかし、政治力に優れたことから重用された。

  1584年南伊予の軍代となり、宇都宮、西園寺領を攻略。長宗我部氏降伏後、元親の命を受け大仏殿建立に使用される土佐木材を秀吉に献上するための伐採を仁淀川で監督していた親直は、吉良親実が現場を視察に訪れ際、一顧だにしない親直に立腹し笠を弓で射たため、二人は犬猿の仲となった。後継ぎ問題でその吉良、比江山らと対立し盛親の家督相続を後押し、家督は盛親が継ぎ、両氏は切腹した。関が原の後,土佐が津野親忠に与えられるとの噂を信じ親忠を盛親の命として切腹させる。この事が家康の長宗我部家改易の為の口実を与えた結果となり土佐は山内一豊に与えられた。

主家滅亡後、謀略、讒言多い佞臣と評判が立ち、再仕官の当てが見当たらずに帰農したという説と、肥後加藤家に千石で仕えたと諸説伝わっている。

久武昌源 (?〜?) 肥後守 親信・親直の父

詳しいことはわかっていない。

 四万十川(渡川)の戦い後、とった首を家来に持って歩かせていたところ、親信に平武者と同じ事をしてはいけませぬと諫められたという逸話が残っている。